杭州寒蘭なまえものがたり

  6、田園詩人


 世界遺産の山、黄山は、杭州から西に280キロのところにあります。
黄山は72峰から成る山々の総称で、そそり立つ岩、岩にはえる松、たなびく雲海、まるで水墨画のような仙境といわれます。
温暖な江南にあって、年平均気温は7.8℃。
ほとんど夏はなく、春秋に氷点下になることも珍しくないそうです。


 
「黄山」(こうざん)はHさんが杭州寒蘭の名前にしています。


 黄山からさらに西、長江を中流までさかのぼると九江です。
長江が南にせりだすようにカーブしたところで、南に中国最大の淡水湖、ハ陽湖があり、その西一帯に廬山(ろざん)の山塊が広がっています。
廬山(ろざん)は昔から神仙の伝説があった山で、中国仏教では南方の中心の一つに数えられる名山です。




 九江市は昔潯陽(じんよう)と呼ばれ、柴桑(さいそう)という村は田園詩人として名高い陶淵明(とうえんめい)[陶潜]の故郷です
陶淵明は365年、戦乱の絶えなかった東晋の時代に生まれました。
29才で故郷を離れ、官職に就きましたが、41才の時彭沢県(ほうたくけん)の県令となったのを最後に「五斗米のために腰を折る」のをいさぎよしとせず、官を捨てて故郷に帰り、田畑を耕して一生を終えました。
辞任にあたってその心境を述べたのが「帰去来の辞」(ききょらいのじ)です


    帰りなん いざ  
    田園まさに荒れなんとす 
    なんぞ帰らざる


 そして代表作「園田の居に帰る」は、故郷に帰った翌年に書かれました。


    久しく樊籠(はんろう)の裏(うち)に在りしも 
    復た(また)自然に返るを得たり


 けれども私達に一番馴染み深いのは「飲酒」と題する二十首の中の第五番目でしょう。


    菊を采(と)る東籬(とうり)の下(もと) 
    悠然として南山を見る


という一節は、夏目漱石の「草枕」にも引用されています。
この詩に出てくる南山というのが廬山のことです。


 世俗にまみれた生活は性に合わず、故郷の田園での自適の生活、精神の自由を求める陶淵明の姿に共感を覚えたのでしょうか、
Mさんが青花のホープに「帰去来」(ききょらい)Aさんがサラサに「淵明(えんめい)園田居(えんでんきょ)をつけています。



 廬山99峰といわれる連峰の一つが香炉峰(こうろほう)です。
陶淵明からおよそ400年後、中唐の詩人白楽天(はくらくてん)[白居易]は、江州(九江)の司馬に左遷されてこの地に来ました。
35才で「長恨歌」(ちょうごんか)を書き、官僚としても一応成功していたのに、直言が元で都から遠く離れた僻地に流されたのです。
四十半ばになっての挫折でした。


 けれども白楽天は、翌々年香炉峰の麓に草堂をひらき、「閑にあって自適」の精神で、充実した在任期間を過ごします。
草堂の壁に書き記した詩は、「白氏文集」の代表作になりました。


    遺愛寺(いあいじ)の鐘は 枕を欹(そばだ)てて聴き
    香炉峰の雪は 簾を撥(かか)げて看る


この一節は「枕草子」に出てくる話としてよく知られていますね。


    故郷 何ぞ独り 長安のみに在らんや


と結びます。
今はやりのプラス思考とでもいうところでしょうか。


 白楽天は陶淵明の熱心なファンで、その故宅を訪ねて詩を詠んだりしています。
左遷の期間は長くは続かず、数年後杭州の長官として赴任し、西湖の堤防工事などに力を尽くすことになるわけです。
最後は法務大臣にあたる地位にまで出世し、官僚として全うしました。
李白も廬山の麓に住んでいたことがあり、この山に関する詩をいくつも残しています。


 「香炉山(こうろざん)Hさんが名前をつけています。


                             
(2001/2/11)

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