杭州寒蘭なまえものがたり

  5、江南よいとこ


 長江下流域の南岸一帯は、江南とよばれます。
 「江南秋色」(こうなんしゅうしょく)という素敵な名前を、田中さんがサラサ花につけていますが、今回は、杭州の周りの江南を見てみましょう。


 寧波(にんぽー)は浙江省東部の海岸沿いにある街で、古くから良港として発展しました。
唐の時代は明州とよばれ、十数回に及ぶ遣唐使の玄関口でした。
平安時代に入唐(にっとう)した最澄や空海も、ここから第一歩を踏み入れています。
平安末から鎌倉時代にかけては、留学僧が次々と南宋に渡ったのですね。


 寧波市の南は仏教の修行場として知られる天台山と四明山に囲まれています。
日本臨済宗の祖となった栄西は、四明山のあたりを歩いていた時重源に出会い、天台山に同行しています。
重源は焼失した東大寺再建のため、大寺院の建築技術や造仏技術を習得しようと、見て歩いていたところでした。


 栄西は天台山で修行した後、師に従って天童山に移っています。
曹洞宗の開祖道元も天童山で学んでいますし、ずっと後になりますが、雪舟もここに入っています。
雪舟の頃は明朝になっていました。
 

 杭州寒蘭の名前としては、青系のサラサに「四明山」(しめいざん)、濃いサラサに「天童山」(てんどうざん)がつけられています。



 南京市は北を長江に接し、三方を丘陵に囲まれた天然の要害です。
春秋時代には呉の領土でしたが、紀元前473年呉は越に滅ぼされ、越の将軍范蠡(はんれい)がここに城を築いたと言われています。
その後、越も西隣の強国楚に滅ぼされてしまいました。


 三国時代になると、魏の洛陽、蜀の成都と並んで、呉の建業(今の南京)は、天下の三つの中心都市の一つとなり、その後六朝時代、明の初期には国都、その後も数々の歴史の舞台になりました。
 

 明の故宮は、燕雀湖という湖を埋め立て、その上に造られたということです。
城の東北、玄武門を出たところに玄武湖があり、それと対応するように、西南に莫愁湖があります。
莫愁湖は周囲3キロの小さな湖ですが、ここには悲しい伝説があります。
 

 六朝時代の斉の頃です。
洛陽に盧莫愁(ろばくしゅう)という佳人がいました。
彼女は、隣に住んでいた王昌と、結婚が決まっていました。
ところがそこに北魏の拓跋(たくばつ)が攻め込んできたのです。
戦乱を避けてこの町に移ってきた莫愁は、三年の年季奉公に出ることになり、毎日一生懸命絹を織っていました。


 一年ほどたったある日、奉公先の主人が彼女に言い寄ります。
しかしそれを断ったため主人の中傷にあい、悲観した彼女は、雨風の強い日に湖に身を投げたのです。
それ以来ここが莫愁湖と呼ばれるようになったということです。


 「玄武湖」(げんぶこ)と、抱え咲きの「莫愁湖」(ばくしゅうこ、共に青花の名前になっています。



 南京の東に、二千年の歴史をもつ鎮江があります。
ここは呉楚両国の境界線だったところで、呉が都を置いたこともありました。
鎮江の街は、長江がカーブして流れ、後ろに山が控えています。
北固山(ほっこざん)を中心に、西は金山、東は焦山(しょうざん)です。


 北固山の山頂にある甘露寺は、三国時代の古跡や伝説があるところとして知られています。
この山にある多景楼は長江が一望でき、「天下江山第一楼」と称えられてきました。
歴代の詩人がここに遊び、詩を詠んでいます。


 金山は元々長江の中の孤島でしたが、土砂が堆積して19世紀の中頃陸地とつながりました。
金山寺には雪舟も訪れ、「大唐揚子江心金山竜遊禅寺之図」を描いています。


 三山の中で一番高い焦山は、
今でも長江の中にそびえています。
全山緑に覆われ、水面に浮かぶ碧玉のようにみえるところから、別名浮玉山とも呼ばれます。
浮玉山」(ふぎょくさん)は紅露さんの花につけられました


                              
(2001/1/13)

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