◆◆ 5、江南よいとこ 長江下流域の南岸一帯は、江南とよばれます。 「江南秋色」(こうなんしゅうしょく)という素敵な名前を、田中さんがサラサ花につけていますが、今回は、杭州の周りの江南を見てみましょう。 寧波(にんぽー)は浙江省東部の海岸沿いにある街で、古くから良港として発展しました。 唐の時代は明州とよばれ、十数回に及ぶ遣唐使の玄関口でした。 平安時代に入唐(にっとう)した最澄や空海も、ここから第一歩を踏み入れています。 平安末から鎌倉時代にかけては、留学僧が次々と南宋に渡ったのですね。 寧波市の南は、仏教の修行場として知られる天台山と四明山に囲まれています。 日本臨済宗の祖となった栄西は、四明山のあたりを歩いていた時重源に出会い、天台山に同行しています。 重源は焼失した東大寺再建のため、大寺院の建築技術や造仏技術を習得しようと、見て歩いていたところでした。 栄西は天台山で修行した後、師に従って天童山に移っています。 曹洞宗の開祖道元も天童山で学んでいますし、ずっと後になりますが、雪舟もここに入っています。 雪舟の頃は明朝になっていました。 杭州寒蘭の名前としては、青系のサラサに「四明山」(しめいざん)、濃いサラサに「天童山」(てんどうざん)がつけられています。
南京市は北を長江に接し、三方を丘陵に囲まれた天然の要害です。 春秋時代には呉の領土でしたが、紀元前473年呉は越に滅ぼされ、越の将軍范蠡(はんれい)がここに城を築いたと言われています。 その後、越も西隣の強国楚に滅ぼされてしまいました。 三国時代になると、魏の洛陽、蜀の成都と並んで、呉の建業(今の南京)は、天下の三つの中心都市の一つとなり、その後六朝時代、明の初期には国都、その後も数々の歴史の舞台になりました。 明の故宮は、燕雀湖という湖を埋め立て、その上に造られたということです。 城の東北、玄武門を出たところに玄武湖があり、それと対応するように、西南に莫愁湖があります。 莫愁湖は周囲3キロの小さな湖ですが、ここには悲しい伝説があります。 六朝時代の斉の頃です。 洛陽に盧莫愁(ろばくしゅう)という佳人がいました。 彼女は、隣に住んでいた王昌と、結婚が決まっていました。 ところがそこに北魏の拓跋(たくばつ)が攻め込んできたのです。 戦乱を避けてこの町に移ってきた莫愁は、三年の年季奉公に出ることになり、毎日一生懸命絹を織っていました。 一年ほどたったある日、奉公先の主人が彼女に言い寄ります。 しかしそれを断ったため主人の中傷にあい、悲観した彼女は、雨風の強い日に湖に身を投げたのです。 それ以来ここが莫愁湖と呼ばれるようになったということです。 「玄武湖」(げんぶこ)と、抱え咲きの「莫愁湖」(ばくしゅうこ)、共に青花の名前になっています。
南京の東に、二千年の歴史をもつ鎮江があります。 ここは呉楚両国の境界線だったところで、呉が都を置いたこともありました。 鎮江の街は、長江がカーブして流れ、後ろに山が控えています。 北固山(ほっこざん)を中心に、西は金山、東は焦山(しょうざん)です。 北固山の山頂にある甘露寺は、三国時代の古跡や伝説があるところとして知られています。 この山にある多景楼は長江が一望でき、「天下江山第一楼」と称えられてきました。 歴代の詩人がここに遊び、詩を詠んでいます。 金山は元々長江の中の孤島でしたが、土砂が堆積して19世紀の中頃陸地とつながりました。 金山寺には雪舟も訪れ、「大唐揚子江心金山竜遊禅寺之図」を描いています。 三山の中で一番高い焦山は、 今でも長江の中にそびえています。 全山緑に覆われ、水面に浮かぶ碧玉のようにみえるところから、別名浮玉山とも呼ばれます。 「浮玉山」(ふぎょくさん)は紅露さんの花につけられました。 (2001/1/13) |