◆◆ 4、呉か越か 象潟や 雨に西施がねぶの花 ご存知「奥の細道」にでてくる名句ですね。 芭蕉が舟遊びの名勝、象潟(きさかた)に到着したのが雨の中。 一泊して晴れるのを待っている時に詠んだものです。 この句には、もとになっている詩がありました。 芭蕉の念頭にあったのは、宋の蘇東坡(そとうば)が西湖の美しさをたたえて詠んだ有名な詩です。 最初に西湖のところで書いた、あの蘇堤の蘇東坡ですね。 水光瀲えん(さんずいに艶)として晴れて方に好く [すいこうれんえん(ゆらゆら)として はれてまさによく] 山色空濛として 雨も亦た奇なり [さんしょくくうもう(ぼんやり)として あめもまたきなり] 西湖を把りて西子に比せんと欲すれば [せいこをとりてせいしにひせんとほっすれば] 淡粧濃抹 総べて相宜し [たんしょうのうまつ すべてあいよろし] ここで西子(西施のこと)というのは、楊貴妃と並んで美女の代名詞となっている女性の名。 楊貴妃が豊満な美女なのに対し、西施はほっそりとして憂い顔の美女だったようです。 蘇東坡は、西湖の美しさを美女西施に喩えているわけですね。 この「西施」(せいし)を杭州寒蘭サラサ花の名前につけたのが、山室さんです。
紀元前5世紀の春秋末期、日本で言えば弥生時代が始まった頃のことです。 それ以前の夏、殷、周の時代には、黄河中流域の平原が中国史の舞台でしたが、春秋時代になると南方に大きく広がり、長江の南も脚光を浴びてきました。 長江中流が楚、下流が呉(今の江蘇省)、その南が越(今の浙江省)というわけです。 「呉越同舟」という言葉があるように、隣り合っている呉と越は、激しく対立していました。 そのさなか、越王允常(いんじょう)が死に、息子の勾践(こうせん)が即位します。 そのすきを狙うように、呉王闔閭(こうりょ)は越に出兵しました。 ところが逆に、攻め込んだ呉軍が大敗し、呉王闔閭(こうりょ)は帰国後、戦いで受けた足の傷が元で死んでしまったのです。 死ぬ前に闔閭(こうりょ)は息子の夫差(ふさ)に、必ずこの仇を討つよう言い残しました。 後を継いで呉王となった夫差は、3年間軍備を整えて、復讐の機会をじっと待ちます。 その頃、呉には楚から亡命してきた伍子胥(ごししょ)、越には范蠡(はんれい)という名臣がいました。 呉が着々と軍備をしているという報告を受けた越王勾践(こうせん)は、機先を制する積りで、呉に攻め込みます。 しかし越軍は、待ち構えていた呉軍に敗れ、越王勾践(こうせん)は逃げ帰る途中、会稽山(かいけいざん)で敵に包囲されてしまいました。 進退窮まった勾践は、名臣范蠡(はんれい)の進言に従って降伏します。 すべての財宝と引き換えに命乞いをしたのです。 伍子胥(ごししょ)は助命に猛反対しましたが、呉王夫差は勾践の命を助けてしまいます。 勾践は屈辱的な扱いに耐えながら、呉に臣従することになりました。 そして、服従しているように見せかけながら富国強兵に努め、実に22年間復讐の機会を伺うのです。 この間、常に身近に苦い胆を吊るしてそれを舐め、会稽の恥を忘れないようにしたといいます。 呉王夫差が、父親の仇を討つまで気を引き締めるために、薪の上に寝たというエピソードと合わせて、'臥薪嘗胆'(がしんしょうたん)という言葉がうまれました。 范蠡(はんれい)は、夫差を堕落させるため、絶世の美女を贈ることを進言します。 そうして選ばれたのが西施(せいし)でした。 彼女はもと苧羅山(ちょらさん)で薪を売っていた山娘で、その山の西に住んでいたので、西子と呼ばれていたとも、紹興の南にある若耶溪の谷川沿いに住んでいて、紗を織っては川の水で洗っていた田舎娘だったとも言われています。 勾践は彼女に美しい服を着せ、様々なことを仕込んで磨き上げ、呉に送り込んだのです。 越を決定的に打ちのめしたと信じる呉王夫差は、財宝や美女にすっかり気が緩み、 何かと諫言してうるさい伍子胥(ごししょ)に名剣'属鏤の剣'(しょくるのけん)を与えて死を迫ります。 伍子胥は、今に呉が越に滅ぼされると予言して自殺しました。 はたして夫差は西施の色香に迷い、政治を怠り、やがて国を傾けることとなって、とうとう呉は越に滅ぼされてしまいました。 呉の滅亡後、西施は范蠡(はんれい)に従って五里湖に遊んだとか、呉の人が憤慨して、彼女を江に沈めたとか、色々な伝説が伝わっているようです。 呉を打ち破った時勾践は、昔自分の命を助けてくれた夫差を許そうとしますが、今度は范蠡が反対しました。 こうして夫差が死に、呉が滅ぶと、やがて范蠡はだまって勾践のもとを去って国を出ます。 その後范蠡は名を変え、商人となって巨万の富を築き、富者の代名詞となったのです。 呉の国都は蘇州でした。 その西郊にある太湖は中国で4番目に大きな淡水湖で、琵琶湖の3倍強あります。 太湖の中にある島(西山風景区)は、呉王夫差が西施を連れて避暑に遊んだところと言われていますし、蘇州には他にも西施にまつわる名所がたくさんあります。
黄さん命名の青花に「太湖」(たいこ)があります。 緑の色がすばらしく、弁幅もある花で、最初はその字のように赤い舌点が一個ずつだったそうですが、その後紅点は固定しませんでした。 寒さに会うと花弁が反ってしまうのが惜しいところで、早めに咲かせたい花です。 蘇州は昔、姑蘇と呼ばれていました。 '楓橋夜泊'という日本でも良く知られた詩に、「姑蘇城外 寒山寺」とありますね。 山室さんが「姑蘇の宴」(こそのうたげ)という名前を自分の杭州寒蘭につけたと聞いています。 蘇州・杭州は、'天に天堂(極楽)あり、地に蘇杭あり'の言葉どおり、まさに江南を代表する美しいところです。 1998年の展示会で、見る人をギョッとさせたほど舌の大きな、ゆったりとした青花。 初花でしたが話題を呼びましたね。 これは持ち主の鈴木千春さんが、「極楽」(ごくらく)と命名しました。 (2001/1/10) |