39、漢の武帝(2)


 前回の続きです。


 漢の武帝統治の前半はまさに躍進の時代でした。
儒学の師だった公孫弘と董仲舒(とうちゅうじょ)、商人出身の学友桑弘羊、西域を通る行商で漢以外の地域に精通していた張騫など、優秀な人材に恵まれ、若い武帝は意欲に燃えていました。
中でも衛子夫との出会いは、その後の展開を大きく変えることになります。





 衛媼(えいおん)の子供6人中父親に引き取られた一番上の男の子は、衛子夫の弟で、名前を衛青といいます。
彼は継母や異母兄弟の中でいじめられ、羊飼いをする奴隷としてこき使われていました。
衛子夫は苦労しているこの弟を手元に引き取ることにします。
衛青は広い草原で放牧をしていたので、匈奴とも度々接触し、西域の事情に通じていました。


 漢王朝はこれまで匈奴に対しては懐柔策をとってきましたが、21才になった武帝は初めて積極的な匈奴討伐作戦を計画します。
張騫が建元2年に大月氏国に出掛けたまま戻ってこないこの時、衛青の匈奴に関する知識や経験は武帝を喜ばせました。
BC129年の第一次匈奴遠征軍で、23才の衛青は車騎将軍に抜擢されます。
衛姉弟の長姉君儒(くんじゅ)の夫公孫賀、衛青の契友公孫敖(ごう)、先帝二代に仕え、飛将軍の異名をとる李広と合わせて全部で四軍が組織され、各1万騎を与えられて進攻しました。
衛青以外の三軍は白兵戦になり、崩れましたが、衛青軍は一直線に内モンゴルの草原を越え、匈奴軍の作戦司令部が置かれていた外モンゴルの籠城を奇襲し、壊滅させます。
李広は負傷して匈奴に捕らえられ、その後脱出して漢軍の陣営に合流しましたが、敗戦の責任を問われ、庶人に落とされて山中に隠れ住みます。
衛青には凱旋パレードが繰り広げられ、爵位が与えられました。


 翌年大将軍となった衛青は二度目の外征でさらに大きな戦績を挙げ、第三次では隴西地方まで匈奴を追いやり、敵兵多数を捕斬して数十万の家畜を手に入れます。
第四次遠征の直前、張騫が13年ぶりに苦難の旅から帰り着きました。
100人で出発して無事戻ったのは2人だけでしたが、張騫の口から得られた最新の情報を元に、第四次、第五次遠征はこれまでで最高の戦果を挙げ、オルドス地方を手中にします。





 その頃、皇后の次姉、衛小児(えいしょうじ)が霍(かく)という男との間に設けた男子霍去病(かくきょへい)が、叔母である衛皇后のところに身を寄せました。
彼は18才まで父親の実家で成長していました。
第六次外征が行われたとき、霍去病は叔父衛青直属の一武将として従軍し、思うような戦果が挙がらない戦の最中、独断で800騎を率いて敵の本陣を急襲します。
全く意表をついた行動でした。
これ以来実戦の指揮は、彗星のごとく現れて武勲を挙げた霍去病に移っていきます。
大将軍は衛青ですが、驃騎将軍として出陣した霍去病は数度の遠征に大勝利をあげます。
しかし5年間の華々しい活躍の後、24才の若き将軍霍去病は病気で世を去りました。
悲しんだ武帝は、自分のために造らせた墓、茂陵の一角に彼を陪葬します。


 BC110年、武帝は封禅の儀を泰山で行いました。
20万人を動員する盛儀でした。
南越、西南夷、朝鮮を征服し、西域地方の楼蘭と姑師(トルファン)も攻め取るという漢帝国の絶頂期でした。
しかし、封禅の儀を境に衛青も病に倒れ世を去ります。


 漢の版図は即位したときと比べて格段に広がりましたが、度重なる外征により、財政は底をついていました。
そこで貨幣改革とともに、色々なものに新たな税金をかけ、それを取り立てる酷吏が幅をきかせるようになっていきます。




 衛子夫は戻(れい)皇太子のほか三公主に恵まれ、女性として頂点を極めていました。
武帝には他にも李夫人、趙夫人など若い寵姫がいました。
李夫人は皇子一人を残して亡くなりましたが、最後の寵姫趙夫人鉤弋(こうよく)との間にも皇子弗陵(ふつりょう)をもうけていました。
しかし46年間、衛子夫の皇后の座はびくともしませんでした。


 BC91年、武帝は健康がすぐれず、長安城外の離宮、甘泉宮で療養をしていました。
そんな時、皇后が武帝の命を縮めようと巫蠱(ふこ)の術を行っていたと、巫術に使う木偶をもって告げ口する人がいました。
この動きを知った戻皇太子は、密告した酷吏の邸を急襲して捕らえた上、衛兵に命じて皇宮のすべての門を固めて一味の反撃に備えようとしました。
しかしこのことが太子謀反の疑いをもたれる結果となってしまったのです。
皇太子は武帝の繰り出した鎮圧部隊と市街戦の末、湖県で包囲の中縊死し、宮中にいた衛皇后は廃皇を告げられた後死を賜ります。
しばらくして冷静になった武帝が真相を確かめ、全部工作だったことがわかって関係者をすべて処刑しましたが後の祭りでした。
武帝の治世を華やかに彩った衛氏一族は、こうして消え去ったのです。


 戻皇太子亡き後、趙夫人の子弗陵(ふつりょう)を皇太子に立て、霍去病の異母弟、霍光を皇太子の後見役にしました。
この弗陵が後の昭帝です。
この事件によって69才の武帝は病篤くなり、終生片腕として尽くした桑弘羊に見守られて亡くなりました。


 すみません。杭州寒蘭の名前は出てきませんでしたね。
                            (2004/8/8)

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