◆◆ 38、漢の武帝 漢の武帝、劉徹は恵帝の第九皇子として生まれました。 恵帝は生涯に6人の夫人を持ち、皇子14人を生ませていますが、その中で最も寵愛したのが、徹(後の武帝)の生母、王夫人でした。 漢室の寵姫女官の順位は、皇后についで夫人、美人、良人、八子、七子、長使、少使と続き、まだその下にもいます。 徹皇子の母、王し(女へんに志)は最初この中の最下位の称号さえありませんでしたが、皇太子時代の啓(後の恵帝)に見初められて寵愛を受け、やがて最上位の夫人の地位になりました。 恵帝は皇太子時代に祖母薄太后の薦めで薄一族の娘、薄氏をめとっていました。 恵帝が即位すると同時に薄氏は皇后になりましたが、薄皇后には子供ができませんでした。 14人いる皇子の最年長は劉栄で、生母は栗妃(りつひ)。 栄が皇太子に立てられるのは確実で、栗妃は皇后を凌ぐ勢いでした。 いくら王夫人への寵愛が深くても、第九皇子の徹は、帝位とは無関係のところにいたのです。
当時皇宮内で隠然たる力を握っていたのは、恵帝の生母、竇(とう)太后でした。 その上、竇(とう)太后の一人娘で恵帝の姉、館陶長公主が、太后を後ろ盾に後宮内を我が物顔に振舞っていました。 館陶長公主には一人娘陳姫がいました。 名前を阿嬌(あきょう)といいます。 館陶長公主は宮廷内での自分の地位を確実なものにするため、陳姫を栄皇太子の妻にしようとしましたが、栗妃に体よく断られ、恵帝お気に入りの徹皇子に目をつけました。 その時阿嬌は21才、徹皇子はわずか5才。 なんと16才も年長の妻だったのです。 次に館陶長公主は、薄皇后にはしかるべき身分を保証した上で皇后を廃し、皇太子の栄を臨江王に封じ、生母の栗妃もそれに準じさせるよう恵帝に進言します。 その上で聡明な徹を皇太子に立て、王夫人を皇后にするようにと画策しました。 栗妃のところで妖しげな巫術の祈りが行われたという角で、皇太子を廃するとの勅命が言い渡されたとき、栗妃は自ら首をくくりました。 紀元前141年、恵帝の死によって劉徹は16才で帝位に就きました。 翌年史上最初の元号建元元年が付され、長い武帝統治が始まります。 館陶長公主が望んだ通り、阿嬌は陳皇后となりました。
武帝劉徹の三人の姉のうち長姉を平陽公主といいます。 彼女は父景帝が没した後も皇城内に御殿を与えられ、夫と住んでいましたが、景帝が使っていた衛媼(えいおん)という婢をもらい受けます。 奴隷の身分の衛媼は、少女の頃皇宮の下級官吏鄭季(ていき)と通じて三男三女をもうけていました。 平陽公主は衛媼の6人の子のうち、父親の鄭季の元にいる一人を除いた残りの5人を引き取った上、彼女を家政婦の地位につけました。 その三番目の子が衛子夫(えいしふ)です。 文学芸術に造詣が深い平陽公主は、後宮で文化懇会といわれるサロンを催していました。 平陽公主は美貌の衛子夫の才能に目をつけ、ただの召使からお抱えの家妓に引き立てます。 文化懇会で歌や舞を披露する衛子夫の美声は公主の自慢の種で、やがて歌姫として宮中に名をはせるようになりました。 建元4年、この文化懇会に招かれた武帝は、公主のもくろみ通り衛子夫に夢中になります。 やがて衛子夫は入内しました。 かつて館陶長公主が景帝を説き伏せて栗妃を倒し、薄皇后を廃して、王氏を皇后に引き立てたのと同じことが、娘の陳皇后の身に起ころうとしているのです。 形だけの皇后だった阿嬌には子供がいませんでした。 衛子夫が寵を独り占めにするようになってから7年後、武帝はついに陳皇后を廃する決断をします。 武帝の木偶人形を作って巫女に呪わせる巫蠱(ふこ)の術を行ったというのが理由でした。 しばらく離宮の長門宮で謹慎した後、母の館陶長公主ともども潤沢で平穏な余生を送れるよう配慮を受けた阿嬌は、歴史の舞台を去ります。 武帝26才、阿嬌は40才を越えていました。 ルーペのSさんが形の良い無点系のサラサに、「阿嬌」(あきょう)と命名しました。 (2004/7/15) |