◆◆ 37、西域 陝西省の省都西安(かつての長安)から西へ、天水、蘭州、武威とたどり、張掖、酒泉、嘉峪関と続く河西回廊を抜けたところ、甘粛省の西端に敦煌市があります。 敦煌は長安を起点としてはるかローマまで続くシルクロードのオアシスでした。 紀元前141年に16才で帝位についた漢の武帝は、匈奴の捕虜から耳にした月氏国へ軍事同盟の使者を送ろうと張騫(ちょうけん)を遣わします。 張騫は途中匈奴の捕虜になりながら、ようやく月氏国にたどり着き、往復13年という苦難の旅の末長安に帰り着きました。 目的の軍事同盟はなりませんでしたが、これによって初めて西域の実情が明らかになったのです。 話を聞いて心を動かされた武帝は、西域諸国への交通路の障害になっている匈奴を排除するため、20才の霍去病(かくきょへい)を将軍に抜擢し、大群を送り込んで対匈奴作戦を展開します。 霍去病は24才で病死するまで何度も出撃して匈奴を破り、甘粛を領域に組み入れました。 ここではヒーロー伝説も生まれます。 蘭州の五泉山公園にある恵泉、甘露泉、掬月泉(きくげつせん)、も(手偏に莫)子泉、朦泉は、遠征途上喉の乾きに苦しむ兵馬のために、霍去病が剣を5箇所に突き刺したところ、泉が湧き出したといわれています。 又霍将軍の功績をねぎらって、武帝が長安から一かめの酒を送りましたが、霍去病は、戦の功績は全将士のもの、全員にこの酒を配ろうと、酒を金泉に注ぎ入れ、皆でこの泉の水を飲みました。 これ以来、金泉は酒泉と呼ばれるようになったということです。 西安の郊外に、武帝の墓茂稜と、霍去病の墓があります。
武帝は涼州(武威)、甘州(張掖)、粛州(酒泉)、沙州(敦煌)の河西四軍を置いて西域支配の前線基地とし、交通路を開拓しました。 双方の使節や商人の往来、物資の交流が盛んになって、それまで中国では知られていなかった植物や工芸品、アラビア馬、音楽なども入ってきました。 北方や西方の民族を指す“胡”の字のついたもの、胡瓜(キュウリ)、胡葱(アサツキ)、胡菜(アブラナ)、胡桃(クルミ)、胡蒜(ニンニク)、胡豆(ソラマメ)、胡椒(コショウ)、胡麻(ゴマ)。 楽器では胡茄(コカ)、胡弓(コキュウ)などはそうして伝わったものです。 さらに後漢の明帝のころになると、同じシルクロードを通って仏教が伝えられることになります。 古い花で透明感のあるサラサ「胡弓」(こきゅう)は、主弁だけが少し弓なりに反るという特徴があります。 Nさんが選別、命名したものを分けて貰ったのですが、いまだに2条。 本家のNさんのところではどうなっているのでしょう。
嘉峪関(かよくかん)から山海関まで6000キロにわたって続く万里の長城の向こう側、砂漠の重要なオアシスの町敦煌は、漢民族にとってまさに西域との接点でした。 県城の東南20キロのところ、鳴沙山(めいさざん)の東の崖におびただしい石窟寺院が掘られています。 世界遺産、莫高窟(千人洞)です。 山腹に横穴を掘ってつくる石窟寺院は、もともとインドから伝わったもので、366年に掘られたという初期の頃のは残っていません。 中央の九層楼をはさみ、今残っている最も古いものは5世紀前半、一番新しいのは14世紀(元代)のものですから、約千年にわたって石窟を掘り続けてきたことになります。 世界最大の画廊といわれる敦煌壁画が時代によって変わっていく様子を、以前NHKテレビでは丁寧に映し出していました。 壁画は武帝の使者として西域に赴く張騫(ちょうけん)の物語や、「釈迦本生譚」などいろいろですが、中でも印象深いのは天空を自由に飛んで仏法を賛美する天人、飛天でしょう。 飛天は香音神ともいわれ、全部で492の石窟のうち270窟以上に、合計4500余りも描かれているそうです。 インドからやってきた飛天は中国古来の仙人の影響を受け、時代と共に姿が変わっていきます。 もともとは裸でしたが、隋代になると衣をまとうようになり、次第に優雅に美しく、唐代になると色彩も鮮やかに、肉感的になっていきます。 盛唐の頃に作られたという第329窟では、天井に飛天が群舞しています。 法隆寺金堂壁画の飛天はふくよかに描かれていますね。 Iさんの紅花「飛天」(ひてん)は花型が整って、舌も最後まで真っ白のまま。 多花性のようで、花茎も高く上がり、沢山の花をつけます。 濃紅色は青いつぼみから段々乗ってくるのですが、最後には緑が残らずベタの紅色になります。
鳴沙山は、まさに月の砂漠のような砂の山。 その中に月牙泉という美しい湖があります。 鳴沙山北麓の泉が水源で、この泉には流砂は流れ込まず、周囲にだけ積もるといわれています。 三日月を表す月牙という名をもつこの湖は、砂漠の中にありながら透明な水をたたえ、枯れることがないそうです。 千葉のTさんが持っている素心に「月牙泉」(げつがせん)と命名しました。 (2004/7/8) |