36、科挙の話


 第14回でも触れた科挙のことを今回も書いてみたいと思います。
官僚を採用するための資格試験“科挙”は、587年隋代に始まりました。
それ以前の六朝時代は貴族主義全盛で、有力な貴族群が地方に根を下ろして力を持ち、政治の要職をすべて独占していました。
それはしばしば天子の権利をないがしろにするほどの勢力になっていました。
このような貴族のわがままを排除しようとしたのが隋の文帝です。
文帝は地方政府の官職に貴族の世襲を認めず、高等官はすべて中央政府が任命するように改めました。
そのため大勢の官吏予備軍が必要となり、有資格者を選別する方法として科挙制をスタートさせました。


 隋代に産声をあげた科挙は唐代約300年の間にほぼ軌道に乗り、宋代に全盛となります。
モンゴルによる元の時代には40年ほど中断しましたが、その後又復活します。
時代によって制度や実施方法は異なるものの、科目による選挙“科挙”の名は清代までそのまま使われてきました。
しかし試験は古典的な教養を試すだけなので、近代社会の新しい知識や技術に対応できなくなったのと、試験の不正に対する予防措置を幾重にも講じているにもかかわらず、その網をかいくぐって不正が横行するようになり、次第に弊害が目立つようになった科挙は、清の1904年を最後として廃止されました。





 科挙の最終到達点である進士になるのは至難の業で、何段階もの困難な試験に合格していかなくてはなりません。
でも家柄も地位もない低い階級の人たちにとって、官吏になることが最も恵まれた道であったことは間違いありません。
どんなに困難でも、そういうつてのない人達に開かれた大きなチャンスであったのですね。


 唐の時代は、六朝時代の貴族主義から官僚政治への過渡期の時代でした。
唐建国の功臣たちが特権的な地位を子孫に伝えようとするのに対し、天子が自分の思うとおりの政治をおこなうためには、家柄に関係なく埋もれた人材を発掘する必要がありました。
科挙は天子にとっても受験者にとっても盛んになる要素を備えていたわけです。


 唐代も初めは貴族政治の別枠として官僚制度をつくり、平民出身の官僚をあてはめていました。
大臣、大将、高官の子供は親の威光で低い官にはつけるので、科挙を受ける必要はなかったのです。
ところが科挙を通過しないと出世できなかったり、世間から尊敬を受けられないので、次第にそういう家柄の子弟も受験するようになっていきます。
玄宗の宰相31人中進士は11人でしたが、次第に進士の割合が増えていき、中唐以降進士熱はどんどん盛んになっていきます。




 ちょっと余談ですが、金太郎と並んで五月人形の定番になっている鍾馗(しょうき)様ってどういう人かご存知ですか?
鍾馗伝説は幾通りもあるそうですが、その一つによると鍾馗は自殺した書生の亡霊だったということです。


 鍾馗は科挙の試験を受けて首席で合格しました。
進士の首席合格者を状元といいます。
ところが皇帝に謁見したとき、その容貌があまりにも醜いという理由で合格を取り消されてしまいました。
絶望した鍾馗は自殺してしまいます。
でも亡霊となっても忠義の心を失いませんでした。


 あるとき玄宗は高熱を出してうなされました。
夢にたくさんの小鬼が出てきて玄宗をさいなみます。
そこに一人の醜怪な巨漢が現れたかと思うと、小鬼どもを片っ端からつかまえて食い殺してしまいました。
すると不思議なことに玄宗はすっかり気分が良くなりました。
玄宗がお前は何者かと訊ねると、男はこれまでのいきさつを語ります。
夢から醒めた玄宗は、夢で見た鍾馗の姿を画家の呉道玄に話して描かせ、魔除けとして群臣に下賜したということです。
別の鍾馗伝説では、首席合格が取り消されたのではなく、何回受験しても落第したので、悲観して自殺したということになっているそうですが。


 昔富山の置き薬で袋に鍾馗様の絵が描いてあるものがあって、熱が出るとそれを飲んでいたのを覚えています。
鍾馗様を五月人形として飾るのも、子供を病気や災難から守る魔除けだったのですね。




 春、科挙の及第者の発表があります。
進士合格者には官界のエリートとしての将来が約束されています。
唐代で進士に合格できたのは100人に1人か2人という難関で、長い苦難の末にようやく手にした栄誉です。
合格者と落第した人の差は月とすっぽん。
得意の絶頂の新進士には、数々の謝恩の会、祝賀の会など晴がましい行事が続き、夢のような時間が過ぎていきます。


 合格者は曲江のほとりの杏園というところで、皇帝から宴を賜ります。
いわゆる曲江の宴で、これは「探花宴」とも呼ばれました。
この時新進士の中の最年少で容貌も端麗な者二人が選ばれて「探花」という役を仰せつかるのです。
長安城内の名園をあちこち訪ねて、一番美しく咲いた牡丹を手折ってきて披露するというのがその役目でした。
杏園での宴が終わると一同馬に乗り、牡丹の出処を訪ねて花を観賞して回ります。
まさに人生最良の晴れがましい場面です。
この先導役の若い二人を「探花使」又は「探花郎」といいました。


 進士の首席合格者を「状元」というのは、及第者の名簿を天子に提出するとき、書状の1ページ目に書かれるからです。
北宋になってから2番目の合格者は「榜眼」(ぼうがん)と呼ばれるようになりました。
榜は掲示板のことで、掲示されるとき2番目に書かれるからです。
眼は二つあるので、ニの隠語として使われます。
唐代では首席を「状元」と呼んで区別しただけで、唐代の「探花郎」は成績にかかわり無く最年少者から選ばれましたが、南宋以降は成績3番目の合格者を「探花」というようになったということです。


 今年(2003年)中国から入った初花株のうち、7条立ちだったため値が張ってしまい、マニア達が皆関心を示しながら敬遠していた株が、花が咲くまで売れ残りました。
これが花型の良いすっきりとした青花だったので、1ではないが期待できる株ということで、「探花郎」(たんかろう)と命名しました。
前途洋々で出世してくれるといいですね。


                            (2003/12/13)

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