35、美女中の美女


 日本なら小野小町というように、どこの国にも絶世の美女が伝説になっているものです。
これまでにも嫦娥、西施、虞美人、王昭君などの美女を紹介してきましたが、美女ナンバー1と言えばやはり楊貴妃でしょう。




 西暦712年、玄宗が唐王朝六代皇帝の座につきました。
姚崇(ようすう)、宋環といった名臣が政治を補佐し、玄宗自身も気持ちを引き締めて政務に励みました。
玄宗の皇帝在位期間は唐王朝で最も長い44年間。
そのうちの前半20年は歴史上「開元の治」とよばれ、二代目太宗の「貞観の治」と並んで唐代を代表する平和と繁栄の時代でした。


 しかし天下泰平が長く続き、緊張感が薄れてくると、やがて政治にも飽きてきます。
そこに現れたのが楊玉環、後の楊貴妃でした。
玉環ははじめ玄宗の息子、寿王李瑁(りぼう)の妃でしたが、玄宗がみそめ、一旦出家させて女道士にしてから自分の後宮に入れたのです。
白楽天の長編叙事詩「長恨歌」ではその場面を
   眸を廻らせて一笑すれば百媚生じ
   六宮の粉黛顔色なし
と表しています。
すっかり魂を奪われた玄宗皇帝は楊貴妃を寵愛し、政治を省みなくなりました。
玄宗はもともと音楽や書の趣味が豊かな風流貴公子で、自らも羯鼓(かっこ)という鼓や玉笛の演奏を得意にしていました。
そして「梨園の弟子(ていし)」と呼ぶ宮廷歌舞団を組織し、お気に入りの名歌手李亀年の歌と演奏で、楊貴妃のために贅を尽くした遊興生活を送るようになったのです。


 その華やかな宮廷サロンに、推薦され呼ばれたのが李白でした。
玄宗が即位してから30年、李白は41才になっていました。
期待して都入りした李白でしたが、与えられたのは翰林供奉(かんりんぐぶ)という文学で仕えるだけの閑職でした。
しかも漢民族以外の少数民族の子として西域に生まれ、成都で育ち、自由奔放に各地を旅した李白です。
閉鎖的な宮廷生活に馴染めず、「胡姫」のいる西市の酒楼で酔いつぶれる毎日でした。
杜甫は「飲中八仙歌」の中で、
   李白は一斗 詩百篇
   長安市上 酒家に眠る
   天子呼び来れども 船に上れず
   自ら称す 「臣は是れ酒中の仙」と
と詠んでいます。




 長安城には三つの壮麗な宮殿がありました。
「大極宮」、「大明宮」、「興慶宮」です。
玄宗は太子の頃に住んでいた興慶宮が気に入り、ここを正殿として暮らし、政務を見ました。
ニオイエビネの名にもなっている「華清宮」は驪山の麓にある温泉宮で、玄宗と楊貴妃が朝に晩に遊んだところです。
興慶宮の庭園にある竜池のほとりには牡丹の名所「沈香亭」があります。
牡丹が満開の春、玄宗は楊貴妃を伴い、梨園の弟子と李亀年の歌を聞きながら花見の宴を催していました。
玄宗は「名花を賞し、妃子に対す、新詞なかるべからず」と言って李白を召しました。
この時李白は二日酔いでしたが、詞を作るように命じられるとたちどころに三首の詞を書き上げました。
楽曲のための歌詞、有名な「清平調詞」です。


   雲には衣裳を想い花には容(かんばせ)を想う
   春風檻を払って露華濃(こま)やかなり
   若(も)し群玉山頭に見るに非ずんば
   会(かなら)ず瑶台月下に向(おい)て逢わん


(楊貴妃の衣裳は霞のようにあでやかで、その容貌は花のように美しい。亭の欄干のあたりでは、春風が露を含んで満開の牡丹の花を吹き払っている。これほどの美女は、仙境の中でしか見出せないだろう。)


   一枝の紅艶 露 香を凝らす
   雲雨の巫山 枉(むな)しく断腸
   借問す漢宮 誰か似るを得たる
   可憐の飛燕 新粧に倚(よ)る。


(紅く燃え立つ牡丹、その露を受けている様は、丁度貴妃が恩寵を受けているのにたとえられる。古代に楚王の夢に現れたという巫山の神女は、結局のところ、虚妄の幻でしかなかった。お尋ねするが、漢の宮殿内でも眼前の美女に匹敵する女性がいただろうか。わずかに化粧をこらした趙飛燕がいるくらいだのものだ。)


   名花 傾国 両(ふた)つながら相歓ぶ
   常に君王の笑いを帯びて看るを得たり
   解釈す春風無限の恨み
   沈香亭北 欄杆に倚る


(名花と傾国の美女とは互いに照り映え、これを君主は満悦至極に見つめている。沈香亭の欄杆によりかかって名花と美人を賞でていると、春の愁いや恨み言など跡形もなく消えてしまうのだ。)―漢詩の旅より―


 第二首の飛燕というのは、漢の成帝の皇后、趙飛燕のことで、絶世の美女とうたわれていました。
「身軽く、能く掌上の舞を為す」とあり、グラマー美人の楊貴妃と較べ、「楊肥燕痩」(ようひえんそう)と言われます。
けれども嫉妬深く淫乱を好み、そのため最後は廃位され、自殺に追い込まれました。


 詞を捧げられたとき皇帝は大満足だったのですが、宦官の高力士の中傷により、李白は趙飛燕の名を借りて楊貴妃を侮辱したということになってしまいました。
結局李白はこの詞が原因で宮廷詩人の地位をわずか3年で追われ、再び放浪の旅に出ることになったのです。
その後安史の乱により玄宗は成都に逃れますが、途中馬嵬坡(ばかいは)で楊貴妃は悲劇的な最期を遂げることになります。


 「玉環」(ぎょっかん)はルーペのSさんが選別した青花につけましたし、すずき園芸のかなり良い青花に「清平調詞」第一首から「露華」(ろか)とつけました。
「飛燕」(ひえん)は肥田さんが自分の花につけています。


                             (2003/12/3)

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