34、始皇帝2


 秦の始皇帝の時代、総人口は2千万人位と推定されているそうですが、阿房宮と驪山陵の工事だけで70万人の徒刑者が投入されたといわれます。
そんなに徒刑者が多いということは、過酷な法律で片っ端から捕まえて使役に送り込んだに違いありません。
こうして苦しめられた人民の反発が、秦を滅ぼす直接の引き金になったのですが、もう一つ暴君のイメージを決定的にしたのが、「焚書坑儒」といわれる思想弾圧事件でした。


 焚書は、丞相に起用された李斯(りし)〈前回登場〉の提言により、始皇帝の郡県制を批判して封建制の復活を唱える学者達を取り締まるために行われました。
史官が所蔵する「秦記」以外の書籍すべて、世の中にある詩、書、百家の言を全部提出させて焼き払うというもので、違反した者は死罪にしました。
書といっても、紙が発明されたのはそれから300年以上後のことで、この時代のは木簡や竹簡を綴り合せたものです。
反体制の元になるものを徹底的に排除するためですから、医薬や占い、農業関係の書は別でした。


 もう一つの坑儒(学者達の生き埋め)の方も、同じく思想弾圧には違いありませんが、これはもともと方士達の裏切りから起こったことでした。
方士というのは、方術(仙術)を使って不老不死の薬を求める人達のことです。
天下を手中に収めた始皇帝は、自分の力を誇示することに精を出しましたが、最後に求めたのは不老不死の薬でした。
せっかく手に入れた我が天下を残してこの世を去ることは耐えがたかったのでしょう、仙薬のために方士達を寵愛したのです。
不老不死の薬があるなら、どんなことをしても手に入れたい。
金に糸目はつけません。
その方士の一人が徐福〈史記では徐市(じょふつ)〉でした。




 徐福は始皇帝に、東方の海中の三神山、蓬莱、方丈、瀛洲(えいしゅう)に仙人がいるので、訪ねて仙薬を手に入れたいと申し出ました。
始皇帝は早速支度金として大金を与え、数千人の童男童女をつけてやりました。
ところが大金をせしめた徐福らは、そのまま亡命してしまったのです。
亡命先は日本の紀州だという説があります。
今でも熊野市と新宮市に「徐福の墓」があって、本家争いをしているようです。


 他の方士らも、不老不死の薬などできるはずがありません。
責任追及を恐れて始皇帝の悪口を言いふらし、皆逃げてしまいました。
怒った始皇帝は、学者達を一人残らず査問にかけ、結局460人を法に違反したかどで生き埋めにし、見せしめとしました。
儒者たちはとばっちりを受けたのでした。




 蓬莱は中国で考えられた想像上の山で、東方の海中にあり、仙人が住むと信じられていた不老不死の霊山です。
Mさんが選別した花に「蓬莱」(ほうらい)と名づけています。


                             (2003/11/8)

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