33、思想家たち


 春秋五覇、戦国七雄と役者が揃い、たくさんのドラマが繰り広げられた末の戦国末期、趙国の人で天下の碩学として名高い荀卿(じゅんけい)という人がいました。
 彼は50才を過ぎてから遊説に出て、斉国、趙国、秦国と渡り歩き、楚国の蘭陵で県令をしながら帝王の学を教えていました。
荀卿とは論理学の基礎を築いた荀子のことです。
性悪説をとる荀卿は、人間の自覚的修養(徳)より外部からの規制(礼)、「徳治」より「礼治」の方が治世の術としては効果的だと説き、「荀子」という書物にまとめて後世に残しました。
 その「荀子」の開巻第一章「勧学篇」の冒頭に書きつけたのが
「青は藍より取りて藍より青く、氷は水より為りて水より寒(つめ)たし。直木も撓めて輪となすを得て、しかも輪は直木に戻らず・・・」
という有名な文でした。
「荀子」には他に「小人の学は、耳より入りて、口より出ず。」という言葉があるそうです。
スミマセン、私のことでした。




 この荀卿の塾に、後に秦の始皇帝がつくる強大な中央集権国家の枠組みをつくることになる二人の人物、李斯(りし)と韓非子(かんぴし)がいたのです。
 李斯は楚国の人で役所勤めの小役人をしていました。
点検するために入った倉庫の中で、我が物顔に米を食べている鼠を見たとき、感じるものがありました。
「のんびりとたらふく食べている米倉の鼠と、おどおどした厠の鼠との違いは、鼠の優劣ではなく、住んでいる場の違いである。
人間も持ち合わせた才能よりも。占めた場がその一生を決める。」
こう考えた李斯は役所を辞め、評判の荀卿の塾に入門することにしました。


 そこには韓の庶公子韓非子がいました。
韓非子は頭脳抜群で、李斯も一目置く秀才でした。
学業を終えた時李斯は、同じ鼠が住むなら倉庫の中、同じ人間が仕えるなら強国だというわけで、当時最も力のあった秦の宰相呂不韋(りょふい)の食客になり、その推挙で仕官を果たします。
その後呂不韋は失脚しますが、李斯は客卿として出世していきました。


 一方成績優秀だった韓非子は、帰国したあと韓王に登用されず、失意の中で著述に没頭することになります。
その著作が今に伝わる「韓非子」五十五篇で、その雑編一に、王と法の関係を述べる比喩として
「楚人に盾と矛とをひさぐ者あり。・・・」というよく知られた矛盾の話が出てきます。
「逆鱗に触れる」という言葉も「韓非子」の説難篇(ぜいなんへん)で、君主を竜に喩えたものですし、北原白秋の歌「待ちぼうけ」の元になった故事も「韓非子」からとったものです。
又ずっと後の三国時代に、諸葛孔明が劉備の息子の劉禅に薦めた書としても知られています。




 その頃秦国は、後に始皇帝となる秦王政の治世でした。
韓非子の著書を読んで感激した秦王は、ぜひ彼をわが国に迎えて学びたいと考え、あえて韓に出兵します。
強国秦に攻められた韓は和睦を願いました。
そこで秦王政は、韓非子を和議の使者として寄越すよう要求し、やってきた韓非子をそのまま師として迎え入れてしまいました。
こうしてかつての荀子の門下生二人が秦国で又一緒になったわけです。


 韓非子は
「もともと治世では堯舜のような名君や、太公望、管仲のような賢臣を期待してはならず、「勢」を正しく定め、それを自ら機能させることが治世のすべてである。」
と秦王に進講し、秦帝国が法治国家としてスタートする土台を作りました。
 一年が経ち、権力とは何かという最終講義で、王も法に服さなくてはならないという言葉に秦王は反発します。
そして師ではなく仕官するようにと韓非子に要請します。
仕官させて韓非子に臣下の礼をとらせようとしたのです。


 李斯は自分より優秀な韓非子の出現で、彼が自分に代わって秦を動かすようになるのではないかと恐れていました。
そこで、秦王に韓非子を避けるように吹き込み、雲陽にある甘泉宮に韓非子を軟禁してしまいました。
甘泉宮というのは秦王政の造った宮殿で、後に漢の武帝がこれを拡張しています。
韓非子はこの甘泉宮で李斯から与えられた毒酒をあおって死にます。
紀元前233年のことでした。
 秦王は愛読書「韓非子」を読み返し、やはりこの著者を殺すのは惜しいと思い直しますが、赦免しようとした時にはすでに死んでいました。
それから12年後の紀元前221年、世界初の統一国家が誕生したのです。


 杭州寒蘭に「甘泉」(かんせん)という青花があります。
花弁が厚く、いい花型をしています。
甘泉宮というと青花らしくないので、「甘泉」としました。


                             (2003/11/7)

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