27、雲南


 雲南省の94%は山と高原で、省都昆明も海抜1900メートルという高地にあります。
1999年には世界園芸博が開かれ、たくさんの観光客を集めました。
省の南端はベトナム、ラオス、西はミャンマーとの国境で、25にものぼる少数民族が住むところとしても知られています。
もともとこの地方は、タイ族をはじめとする少数民族の住んでいた地域で、中原から見ると言葉も文化も全く異なる異国、西南夷とよばれていました。
本格的に中国の中に入ったのは元の時代からで、雲南省という呼び方が使われるようになったのは、ずっと後の清朝になってからのことです。
雲に覆われた蜀の南ということでしょうか。


 昆明のあたりは緯度的には亜熱帯地方に属しますが、高地にあるためその気候は「四時如春」(しじはるのごとし)。
夏は20℃位、冬は9℃位と寒暖の差が少なく、別名「春城」とも呼ばれます。
昆明市内から120キロのところにある石林は、3億年の昔、海底が地殻変動によって隆起したもので、天下一の奇観といわれています。
一方麗江には未だに誰も足を踏み入れていない処女峰を持つ玉龍雪山(5595メートル)が、万年雪と氷河に閉ざされて象徴のようにそびえているかと思うと、国境付近のタイ族自治州シーサンパンナは南国の町というわけで、熱帯から高山帯まで変化に富んだ地形、気候をもつ雲南省は、1万2千種の植物が自生するという植物の宝庫なのです。


 昆明市の北部に翠湖があります。
湖は長堤でいくつにも区切られていて、堤にはしだれ柳、湖面には蓮の葉が広がり、両方の緑が相まって翠湖と呼ばれるようになったといわれています。
その緑を映しているのでしょうか。
「翠湖」(すいこ)は黄さん命名の青花です。




 雲南省の東部高原にはぶ仙湖(ぶはてへんに無)、じ海(じはさんずいに耳)などの広大な湖がありますが、その最大のものは昆明にあるてん池(てんはさんずいに眞)です。
中国で6番目の大きさのてん池は別名昆明湖とも呼ばれ、高原の真珠と形容される美しい湖です。


 てんも昆明も、もとは民族を指す言葉で、やがて住んでいる地域を言うようになったのですが、中原の漢民族がこの地方を意識するようになったのは漢代のことでした。
たびたび匈奴を攻めた漢の武帝は、漢民族の外の世界に関心を持ち、華南地方の主だった南越や西南夷をも討とうとしました。
しかし乾燥した平原に住む漢民族にとっては、南越と戦うための水戦は不慣れです。


 そこで武帝は長安郊外に水戦訓練用の池を掘らせ、「昆明池」と名づけて楼船や戦艦を浮かべました。
訓練の結果南越攻略は成功し、漢の郡県が置かれましたが、西南夷は山々が折り重なった「瘴煙蛮雨」の地。
険しい山での戦いに不慣れな上、風土病にたおれる兵も多く、匈奴をも破った無敵の漢軍にもどうすることも出来ませんでした。
結局精鋭を誇った西南夷は、モンゴル人の元によって中国に吸収されたのです。




 ここで話は北京市北西郊外に飛びます。
北京市最大の公園「い和園」(いは臣+頁)の中に昆明湖があるからです。
い和園は金代以来歴代皇帝の行宮でしたが、清の乾隆帝のときに大規模な改修工事を行いました。
乾隆帝が好んだ江南の風景を、首都北京近くの離宮に再現しようとしたのです。
290万uという広大な面積の3分の2を占めるのが昆明湖、南湖、西湖で、昆明湖の北にはやはり人工の山、万寿山があります。
1760年、乾隆帝が皇太后の誕生日を祝って大報恩延寿寺を建て、その丘に万寿山という名前をつけました。
ところが1860年英仏連合軍の侵入で略奪、破壊を受け、園内の多くの建物が焼かれました。
それを清朝末期、西太后が自分の隠居所を造るため、海軍の予算を流用して庭園再建を強行し、清朝滅亡の時期を早めたといわれています。


 「昆明湖」(こんめいこ)は初期の頃に選別された、濃い緑の花弁を持つ青花です。
伸びやかな花型で、咲きながら大きくなっていきます。
「万寿山」(まんじゅさん)も同じ頃のサラサで、その色合い、きちんとした花型、豊かな舌、花間をとった咲き方、どれをとっても申し分のない人気花です。
なかなか花が見られませんが。


 北京の市街地から40キロほど北に天寿山があり、ふもとに「明の十三陵」があって、やはり観光の名所になっています。
「天寿山」(てんじゅさん)という名も、サラサ花につけられています。


                             (2003/1/24)

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