◆◆ 25、蜀 四川省、雲南省の蘭は、一般に中国奥地の蘭と呼ばれていますね。 以前は大変だった奥地への旅行も、今では直行便の飛行機で行くことができるようになり、蘭を求めてのツアーが何回も行われているようです。 四川省の省都である成都は、今では中国西南地方最大の工業都市ですが、かつては巴蜀とよばれ、中原から見るとはるかに遠い奥地で、入蜀という言葉があるくらい、蜀の地に入るのは困難なことでした。 何しろ山また山の断崖には道がなく、岸壁に穴をあけて丸太を差し込み、そこに棚を架けるようにして造られた「蜀の桟道」を通って山を越えていくか、長江をさかのぼって行くしか方法がなかったのですから。 長安から蜀へ通じる街道は蜀道と呼ばれていました。 「ああ、危ういかな高いかな」で始まる「蜀道難」という詩の中で李白は、「蜀道の難きは青天に上るよりも難し」と詠んでいます。 剣閣ともよばれる険しい桟道は最大の難所で、同じ「蜀道難」に、「一夫関に当れば万人も開く莫(な)し」と詠われています。 一人の兵士が関の守備に当っていれば、万の兵で攻めても破ることができないというのですから、大変なところですね。 「箱根の山は天下の険」の唱歌(若い人はこんな古い歌知らないでしょう?)は、この李白の詩から採っているのでしょうか。 函谷関や羊腸の小径も中国のものを例えにしているのですから。 まさに元祖天下の険というわけですね。
57万平方メートルという広大な面積をもつ四川省は、そのほとんどが山で、平地はたったの5〜6%。 気候は雨が多く、いつももやに包まれ、成都付近の気温は冬でも零下にならず、真夏でも30℃を超えることが少ないそうです。 そんな山岳地帯の中に、ちょうど茨城県がすっぽり入るくらいの成都盆地が広がります。 この盆地は、極端に日照の少ないところにもかかわらず、二毛作、南の方では三毛作ができるという穀倉地帯なのです。 かつてこの地は岷江の氾濫によって度々大きな被害を受けましたが、今から2千3百年前、戦国時代の秦が蜀を手に入れた時、大規模な治水工事を行いました。 蜀郡太守をつとめた李冰(りひょう)が手がけた大事業とは、都江堰(とこうえん)とよばれる大きなダムを造り、岷江を二つの流れに分けるというものでした。 一つは長江に通じる外江で、もう一方は成都盆地の灌漑用水路となる内江です。 秦が強大になって天下統一を果たせたのも、行き渡った水路によって潤された肥沃な成都盆地からの収穫で、多くの兵を養えるようになったためと言われています。 孔明が劉備に、蜀を根拠地として立つべしと説いたのも、この地の農業生産力と、天然の要塞によって大陸各地から隔絶されたような地形に目をつけたのでしょう。 成都市南郊に武候祠(ぶこうし)があって、諸葛孔明が主君劉備と共にまつられています。
成都は昔錦官城とも呼ばれていました。 丞相の祠堂、何れの処にか尋ねん 錦官城外、柏は森々たり と詠んだ杜甫は、中原の飢饉に遭って食を求め放浪した後、蜀道の険を越えて四川に入りました。 友人の高適(こうせき)らの援助もあって、武候祠から2キロほどのところにある成都の浣花渓(かんかけい)に草堂を作り、49才から3年間住んでいました。 この草堂で数々の名作を生み出しましたが、中でも 清江 一曲 村を抱いて流る 長夏 江村 事々幽(しずか)なり で知られる「江村」と題する詩が、その頃の穏やかな生活を表しています。 「杜甫草堂」は清代に修築され、詩聖を記念しています。 杭州寒蘭青花に「清江」(せいこう)という名前がつけられています。 (2002/11/7) |