◆◆ 23、王昭君 洞庭湖の北、湖北省の興山県宝坪村は、匈奴に嫁いだ王昭君の故郷です。 匈奴は西域の遊牧騎馬民族で、紀元前4世紀末から五百年にわたってたびたび侵攻しては秦漢王朝を苦しめてきました。 燕、趙、秦などの戦国諸国が長城を築いて防御に努めたり、秦の始皇帝や漢の武帝などが大軍を派遣して攻めたりしましたが、こうした積極策は国を疲弊させる元になりました。 匈奴対策は歴代王朝の大きな悩みの種だったのです。 そうした中で衛青(えいせい)、霍去病(かくきょへい)らの英雄が生まれ、反対に蘇武、李陵という悲運の人がでましたが、このことは後で書かせてもらいます。
漢の元帝は天下の美女を後宮に集めていましたが、あまり多すぎて一人一人接見することができませんでした。 そこで画工の毛延寿に命じて女達の肖像画を描かせ、それを見て寵愛する美女を選んでいました。 女達は競って画工に賄賂を贈り、出来るだけ美しく描いてもらいましたが、容貌に自信のあった王昭君だけはそれをしなかったため、醜く描かれてしまいました。 これまで漢は匈奴に対し、武力討伐と和親の硬軟両面の政策をとってきましたが、その頃勢いの強くなった匈奴の王、呼韓邪単于(こかんやぜんう)が漢王朝に王妃となる女性を要求してきました。 匈奴との融和を願う元帝は、これを呑んで宮女の一人を与えることにしましたが、そのとき、例の肖像画の中から選び出したのが醜く描かれた王昭君でした。 いとまごいの謁見の時初めて彼女を見た帝は、その美しさに驚き、後悔しましたが、今さら決定を変えるわけにはいきません。 こうして王昭君は単于(ぜんう)の妻となり、匈奴の地で一生を終えました。 唐の李白も悲劇の人を詠んでいます。 「王昭君」 昭君玉鞍を払い 馬に上りて紅頬を啼く 今日は漢宮の人 明朝は胡地の妾
昭君故里の近くには、昭君ゆかりの昭君台、昭君井、梳妝台(そしょうだい)、望月楼などがあります。 望月楼といえばこれをもじったのが「望星楼」(ぼうせいろう)。 捧心のきちんと閉じたサラサで、花間をとっていい雰囲気で咲きます。 舌に星屑をちりばめたような細かな紅点があるのが特徴でこの名がついたのですが、平成3年の初花で咲いたのは2回だけ。 最初2条だったのが、後に1条になってしまうという危機を乗り越えて、ようやく今また2条に復活しています。 3回目の花は来年でしょうか? 期待しましょう。 (2002/9/14) |