21、十個の太陽


 張説(ちょうえつ)の詩、「梁六を送る」(第18回)の冒頭に


   巴陵一望す 洞庭の秋


とありますが、今回はこの巴陵にまつわる伝説です。
同じ回にでてくる娥皇、女英姉妹の父、帝堯の時代のことです。



 太古の昔、太陽は十個ありました。
十個の太陽は東方の天帝の子供たちで、東海の果ての海中にある高さ数千丈の扶桑(ふそう)の木に住んでいました。
彼らがいつもそこで体を洗っていたので、その辺りの海はまるで熱湯でした。
太陽が十個といっても、人々が見るのはいつも一つだけで、毎日規則正しく交代で空に上っていたのです。
順番に出て一回りするのを旬といいました。
今でも上旬、中旬、下旬などと十日単位の言い方をしますね。


 暗夜が消え〔黎明〕(れいめい)が近づくと扶桑樹の頂の玉鶏が大声で鳴き、天下の鶏が呼応して順番に鳴きます。
それを合図に太陽が扶桑樹の下を出発します。
扶桑樹の頂に着いた時を〔晨明〕(しんめい)、義和の御する竜車に乗って出発する時を〔朏明〕(ちつめい)、曲亜というところに到着した時を〔旦明〕(たんめい)という具合に時刻を表す名前が決まっていて、何千年もの間このスケジュールはきちんとしていました。


 ところが堯の御世のあるとき、いつも同じことの繰り返しに飽き飽きした太陽たちは、こっそり相談して全部一斉に飛び出し、大暴れを始めたのです。


 地上からは影が消え、強烈な日差しに作物は皆枯れて、人々は暑さと飢えで息も絶え絶えになりました。
雨を降らせる役の巫女も、祈りの最中に暑さで死んでしまい、打つ手がなくなった堯は天帝に祈り呼びかけました。
天帝も死ぬような目に遭っている人々を放ってはおけません。
いたずらっ子たちの悪さを止めさせるため、弓の名手のげい(羽の下に廾)を、妻の嫦娥(こうが)と共に地上に遣わしました。
もちろん一寸脅かしておとなしくさせるためでした。


 地上の人々は本当に困り果てていましたから、げいを大歓迎しました。
国中の人々が期待をこめ、固唾をのんでこの勇者を見守ります。
こうなってはもう引っ込みがつきません。
脅かすだけでは 済まなくなったげいは、弓に矢をつがえると太陽を一つ本当に射落としてしまいました。
すると地上は少し涼しくなって皆は大喜びです。
調子に乗ったげいは、もう止まりません。
次々と太陽を射落としていきます。
けれども太陽が人々の暮らしに大切なものだということを思い出した堯が、十本入っていた矢袋からあわてて一本抜きとったので、天空の太陽は一つだけ残ったのです。




 太陽の害を取り除いたあとのげいは、頼まれてあちこちの怪禽猛獣を退治し、続いて南方の洞庭湖に向かいました。
洞庭湖では〔巴蛇〕(はだ)という大きなうわばみが大波を巻き起こしては漁船を転覆させ、漁夫たちを大勢腹に呑みこんでいましたから、湖で暮らしをたてている人々は困っていたのです。
げいは激戦の末、ついにこの巴蛇を退治しました。
人々がこの骨を拾い上げると、それだけて山が一つできました。
それで湖南省岳陽県の西南、洞庭湖に臨むこの山を巴陵というようになりました。


 最後に桑林の大猪を退治したげいは、人々の禍をすべて取り除いてくれたと言って堯帝に大変感謝され、英雄になりました。
しかしせっかくの奮闘も天帝からはほめてもらえなかったのです。
子供達を射落とされた天帝は悲しみ怒っていたのでした。
天帝はげいの神籍を剥奪し、妻の嫦娥もろとも天上から追放します。
その結果二人は地上で暮らすことになってしまいました。
この続きは又次回に。




 李白が「荊州賊乱し洞庭に臨みて言懐して作る」という詩に巴蛇のことを詠んでいます。


    修蛇 洞庭に横たわり
    呑象 江島に臨む
    積骨 巴陵と成り
    遺言 楚老に聞く


 修蛇(しゅうだ)というのは長い蛇、呑象(どんしょう)も象を呑みこむほどのものすごい大蛇。
どちらも洞庭湖にとぐろを巻いていた巴蛇の形容で、当時荊州におきた反乱をたとえています。
げいの手で退治された巴蛇の骨が積み重なって今の巴陵となったという伝説を、土地の古老から聞いたという内容です。


 谷原さんが一昨年手に入れた青花に、はるか東方の海中にあるといわれる伝説の樹、「扶桑」(ふそう)と命名しています。
                             (2002/7/18)

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