◆◆ 19、岳陽楼 「岳陽」(がくよう)という名の濃い紅サラサの花があります。 岳陽は湖南省北東部、洞庭湖と長江が接する洞庭湖畔にあるまちで、2千年あまりの歴史を持つ古都です。 かつては巴陵とか岳州と呼ばれ、古くから交通の要所として栄えてきました。 洞庭湖を見下ろして建つ岳陽楼は、中国文学史上有名な三大名楼の一つです。 もともとここには三国時代、呉国の将軍魯粛(ろしゅく)の閲兵台があったと伝えられています。 前回登場した唐の張説(ちょうえつ)が、岳州の刺史に左遷されたとき、この閲兵台跡に楼閣を建て、岳陽楼と命名しました。 はるか湖中の君山と向き合うように建てられた岳陽楼で、孤峰を見ながら長安の都を偲んでいたのでしょう。 のちに宋代になって、ここ巴陵郡に追放された勝子京が、 1,045年にこの岳陽楼を改修しました。 その時、親友で有名な文学者だった范仲淹(はんちゅうえん)に 「岳陽楼記」を執筆してもらいました。 これは紫檀の板を12枚つなぎ合わせた大きな彫屏につくられましたが、そこに彫られた368の文字は名文として評判をよび、「楼は文を以って存す」といわれて、岳陽楼の名は高まりました。 その中の 「物を以って喜ばず、己を以って悲しまず」 「天下の憂いに先んじて憂え、天下の楽しみに後れて楽しむ」 という二句は後世の人に大きな影響を与え、後の句は日本でも後楽園の名のもとになりました。 中国の中学校の教科書に「岳陽楼記」がのっていて、古文の名文として暗誦されると読んだことがあります。 今ある岳陽楼は清の同治6年(1867年)に造られたものですが、岳陽楼記の方も、楼の修築者、「岳陽楼記」の作者、書き手、彫刻者、この四人のすばらしさをほめたたえて、「四絶」(しぜつ)と言われた宋代のオリジナルは失われて、清代に作られたものが今陳列されているそうです。
「岳陽楼に登る」 杜甫 昔聞く洞庭の水、 今上る岳陽楼 呉楚 東南にさけ、 乾坤 日夜浮かぶ 親朋 一字無く、 老病 孤舟あり 戎馬 関山の北、 軒に憑れば涕泗流る 岳陽楼というと真っ先に挙げられるこの詩は、杜甫晩年の名作です。 杜甫は李白より11年後輩で、唐の国が始まってから百年ほどして中国北部で生まれました。 前半生はちょうど玄宗皇帝と楊貴妃のロマンス華やかな時代に当たります。 杜甫は若い頃から政治や社会に対する関心が人一倍強く、大きな志をもっていましたが、仕官の望みはかなえられず、悶々として日を送ります。 出版業などというものがなかった当時のこと、詩人が生きていく道は官職に就く以外には無かったわけですね。 杜甫は高官に詩を贈ったりして、なんとかとりたててもらおうと必死でした。 けれども一向にチャンスに恵まれず、40才になって初めて小官の職にありつくことができたのです。 ところがやがて安禄山の乱に巻き込まれて反乱軍の捕虜になり、またまた大変な苦労を強いられます。 疎開していた家族とも離れ、独り拘禁されていたときに作ったのが、「国破れて山河あり、城春にして草木深し」で有名な「春望」という詩です。 やっとのことで監禁から脱出して、新帝粛宗(しゅくそう)のもとに駆けつけた時は、その功で左拾遺に取り立てられましたが、まもなく左遷され、役人をやめて各地を転々と旅するようになりました。 一時四川の浣花渓(かんかけい)のほとりに草堂を構えて落ち着き、役人生活に戻って安定した時期を過ごしましたが、またまた、今度は家族を引き連れて舟で旅にでます。 岳陽城下にたどり着いて「岳陽楼に登る」の詩を詠んだ時、杜甫は57才になっていました。 病身の上、戦乱と災害で何もかも失い、薬を売って舟で生活しながら、湘江を漂泊します。 59才の冬、岳陽付近の舟の中で杜甫は病死しました。 当時一家には葬儀の費用もなく、このあたりの地に仮埋葬されましたが、43年後、孫の杜嗣業が河南の首陽山のふもとに墓をつくりました。 杜甫の一生は苦労の連続のようなものでしたが、家族への愛、社会の虐げられた人々への優しい目、国を思う気持ちにあふれた詩をたくさん作りました。 李白が「詩仙」といわれたのに対し、杜甫は「詩聖」と呼ばれ、古今最も偉大な詩人として尊敬を受けています。 杜甫の生誕千二百五十周年を記念して、1962年、洞庭湖畔に「懐甫亭」が造られました。 (2002/3/10) |