杭州寒蘭なまえものがたり

 18、洞庭湖 〔2〕
 

 花型の良い青サラサで、「洞庭山」(どうていざん)という花がありますね。


 洞庭湖の中に青螺(せいら)と形容される総面積1平方`の島があって、名前を君山(くんざん)といいます。
清代に、乾隆帝が気に入って毎年献上させていたという宮廷専用の高級茶「銀針茶」の産地で、茶島の異名があります。
君山は現在水位の低下で陸続きになっているようですが、この島の古い名が洞庭山(湘山)です。


 中国の歴史年表では最初の王朝は夏(か)ですが、司馬遷の「史記」は「五帝本紀」(ごていほんぎ)で始まります。
五帝とは黄帝から始まる五人の聖天子のことで、天命によって帝位につき、理想的な治世を行ったとされます。
今の平成という元号の出典もこの「五帝本紀」だそうですよ。


 この五帝のうちの4番目、帝堯には、娥皇(がこう)、女英(じょえい)という二人の娘がいました。
五帝の時代には帝位は世襲されず、有徳者を選んで禅譲していましたが、帝堯から禅譲された帝舜が、この美しい二人の姉妹を妃に迎えました。


 ところが舜は、南方各地を巡歴中に、湖南省の蒼悟の野で亡くなってしまいます。
訃報を聞いた二人の妃は嘆き悲しみ、すぐに車や船を乗り継いで南方に向かいましたが、湘水まで来ると強い風波が起こって船が転覆し、二人は溺れ死んだとも、又、悲しみのあまり湘水に身を投げたとも伝えられています。


 君山にある「湘妃竹」(しょうひちく)という斑竹は、伝説では娥皇、女英の流した涙が竹林にふりかかって、斑紋ができたものだとされています。
二妃の墓がこの君山につくられ、湘水の女神、湘君として祀られています。



 唐の玄宗時代の宰相で張説(ちょうえつ)という人がいました。
身分は卑しい生まれでしたが、則天武后の思い切った人材登用の波にのって進士に合格し、中央政界に進出していきました。
64才で死ぬまで、何度も左遷と返り咲きを繰り返すという、波乱の人生を送った人です。


 玄宗が皇帝に即位すると張説(ちょうえつ)は首相の座につきました。
けれども、政敵、姚崇(ようすう)が起用されると、これと対立して中央政界を追われます。
そして岳州の刺史をしているときに張説が詠んだ詩。


       「梁六(りょうろく)を送る」
    巴陵(はりょう)一望す 洞庭の秋
    日(ひび)に見る 孤峰の水上に浮かぶを
    聞くならく 神仙は接すべからずと
    心は湖水に随って共に悠悠たり


 これは潭州から長安に向かう途中の梁知微(りょうちび)が、岳州に寄って張説を訪ねたのを、別れる時に送った詩で、


「巴陵から洞庭湖の秋の風景を一望のもとに眺めることができます。
いつでも目に映るのは湖上に浮かぶ君山の孤峰(長安の都にたとえている)です。
聞くところによると仙人(皇帝)には近づかない方がいいようです。
でも、仙人を思う気持ちは、湖水とともに尽きることがないでしょう。」


と、都に帰りたい気持ちを詠んだものです。


 黄さん命名の「孤峰」(こほう)は、濃いサラサのしぶい色合い、最後まで捧心を閉じた抱え咲きの雰囲気ある花型とともに、当店では最高の評価を受けています。
この詩の孤峰は君山を指していますが、他の詩では別の山を指していますから、黄さんがここからとったかどうかはわかりませんが。


                             (2002/2/28)

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