◆◆ 17、洞庭湖 〔1〕 「洞庭湖」(どうていこ)は黄さん命名の青花、だったのですが、力がついてきたせいでしょうか、最近はいつも青サラサで咲いています。 「西湖」(せいこ)と同じパターンですね。 洞庭湖は長江中流域にひろがる一大湖沼地帯の中でもひときわ大きい、中国第二の淡水湖です。 北は長江につながっていて、渇水期と増水期では面積がおおきく変わります。 長江の水量を調節する役割を果たしているわけですね。 昔はもっと大きな沼沢地だったそうで、雲夢沢とも呼ばれていました。 黄帝が天上の音楽を奏でた地ともいわれ、古代の伝説に彩られた湖でもあります。 今年入れた杭州寒蘭から選んだ初花株に、無点系のかわいい青花が咲いて、田中さんが「雲夢沢」(うんぼうたく)と命名しました。 東京都が二つすっぽりと入ってしまうこの大きな湖に、湘水、資水など沢山の川が注ぎ込んでいますが、東から流れ込む汨水と羅水という小さな川の合流点を汨羅(べきら)といいます。
戦国時代、このあたりには楚の国がありました。 戦国末期の詩人屈原は、楚の王族として生まれ、国王の信頼厚く、前途有望な新進官僚として、政治の中枢にいました。 その頃、時代はすでに天下統一に向けて動き始めていましたが、戦国諸国の中でも覇を争う資格があったのは、秦、楚、斉の三国にしぼられてきていました。 楚の国内では、大国秦と組むか、斉と結んで秦に対抗するかの二派に意見が分かれました。 親斉派の屈原は、懐王に命ぜられて法制度の改革案をまとめていましたが、重用される屈原をねたんだ親秦派の斬尚(きんしょう)の讒言によって、懐王に疎まれるようになります。 やがて秦は斉を攻めようとします。 しかし斉が楚と結ぶのを警戒した秦は、策士張儀の謀略で、斉と断交するよう楚王にわなをしかけました。 まんまと策にはまった楚の懐王は、屈原の反対にもかかわらず、斉と断交してしまいました。 騙されたと知って怒った懐王は、大軍をもって秦を攻めますが、大敗して多くの兵と領土を失います。 楚と斉との関係修復の動きで、秦は奪った領土の返還を申し出ましたが、怒りの収まらない懐王は、領土よりも張儀の身柄を要求し、応じて楚にやってきた張儀を拘束しました。 しかし屈原が交渉の使者として斉に行っている間に、張儀は親秦派の斬尚と組んで、まんまと逃げ帰ってしまいました。 その後、秦国では恵王が死んで昭王が即位します。 昭王は楚との縁組を求め、秦国内で会見するよう提案してきました。 陰謀を感じた屈原が反対しますが、親秦派に押されて懐王は秦に出向いてしまいます。 屈原が恐れた通り、待ち伏せにあって懐王は捕らえられ、死ぬまで楚国に帰る事はできませんでした。 捕らえられた懐王に代わって急遽即位した頃襄王(けいじょうおう)の親秦政策に対し、屈原は諫言せずにはいられませんでした。 屈原には楚が秦に滅ぼされるシナリオが見えていたのです。 しかし、又もや斬尚(きんしょう)の讒言によって諫言は王の怒りを買い、追放された屈原は国内各地を放浪します。
屈原は、「漁父」(ぎょほ)という詩の中で、 世を挙げてみな濁れるに われ独り清(す)めり 衆人みな酔えるに われ独り醒めたり と、一点の汚れも受け付けぬ自分の生き方をうたっています。 これに対して漁夫は、 滄浪(川の名)の水清まば もってわが纓(えい)〔冠の紐〕を濯うべし 滄浪の水濁らば もってわが足を濯うべし と、世間の流れに身を任すことこそ聖人の生き方だと歌いますが、結局屈原にはできないことでした。 生涯一つの政治理想を抱き続け、まじり気のない生き方を貫いた憂国の詩人は、紀元前279年、15年にわたる放浪生活の末、洞庭湖に注ぐ汨羅江(べきらこう)に身を投げて、65才の生涯を閉じました。 屈原の最期を聞いた近在の人々は、競って舟を漕ぎ出して舟べりをたたき、米を包んだ粽(ちまき)を江に投げ入れて魚をおびき寄せ、魚が遺体を傷つけないように防いだと伝えられています。 5月5日端午の節句に、東南アジア各地で竜舟競争が行われ、粽を作るのは、この故事にならったものといわれます。 人々に敬愛された屈原の「楚辞」「離騒」はずっと愛読され、日本でも横山大観の屈原図が名作として知られています。 (2001/11/18) |