◆◆ 16、三国志 3
日本でもファンの多い三国志には大勢の英雄豪傑が登場しますが、そんなオールスターの中でも一番人気は、やはり諸葛孔明でしょう。
劉備に三顧の礼で迎えられ、二人の関係はお互いになくてはならない「君臣水魚の交わり」といわれました。
貧乏のどん底に育って何の地盤も持たない劉備を、最後には三国分立の一角をなす皇帝にまで上らせたのは、孔明あってのことです。
軍師として、又政治家としての冷静な判断力、公平無私の人格、裏切りなど当たり前の乱世にあって、死ぬまで貫いた忠誠心など、最高の評価を得ていますね。
孔明を祀った武候祠は劉備の恵陵と並んでいて成都の観光名所になっていますが、唐代の詩人杜甫も
丞相の祠堂、何れの処にか尋ねん
錦官城外、柏は森々たり
と詠んでいます。
鈴木千春さんが、サラサに「孔明山」(こうめいざん)とつけて展示されました。
三国鼎立といっても、曹操の魏は黄河流域の先進地域に展開し、その領域も一番広いのに比べ、長江流域の呉はともかく、上流の蜀漢は小さな地方政権といった感じでした。
史実の三国志は、後漢の献帝から帝位を禅譲された(実際は無理やり奪った)魏を正統とするのに対し、物語の方は、漢王朝の血を引き、これを復活させたとする蜀漢の劉備を善玉、曹操を悪玉として描いています。
寄席や講談で、劉備が負ける場面では涙を流し、曹操が負けると拍手喝采する子供達のことを、蘇東坡が「東坡志林」という本に書いているそうです。
昔から劉備の人気は変わっていないということですね。
劉備旗揚げの時の「桃園の誓い」は史実にはありませんが、死ぬ時は三人一緒にと契りあった関羽、張飛も豪傑として人気があります。
特に関羽は、一時曹操に捕らえられていましたが、人物に惚れこんだ曹操から武将として迎えたいとの申し出があった時もきっぱりとそれを断り、劉備への忠誠心を貫きます。
悲劇的な最期を遂げた関羽は、北宋末(12世紀初頭)になって軍神、財神として祀られました。
南宋末以降の歴代朝廷は、民衆の人気に先んじて関羽をまつり上げ、関帝廟は町や村にまで置かれて、観音に次ぐ信仰の対象になりました。
時代は違いますが、英雄というと真っ先に名があげられる南宋の岳飛の廟も、岳王廟となっています。
皇帝として祀る関帝廟と同様、武将だった人が死後王や皇帝となっているのは、政策でもあったのでしょうが、悲劇の忠臣というのはやはり人々の心を打つのですね。
孔明のライバルといえば仲達ですが、前半は周瑜がライバルでした。
周瑜は漢代からの名門の出で、孫策と周瑜は有名な美人姉妹を妻にしています。
武将としての力量も勿論ですが、36才の若さで病死したということも、詩人達の心を動かすのでしょうか。
「泣いて馬謖(ばしょく)を斬る」の馬謖は五人兄弟の末っ子でした。
馬氏の兄弟は皆揃って秀才でしたが、すぐ上の兄、馬良は特に優れていました。
馬良は眉に白い毛があり、皆が「馬氏の五人兄弟中、白眉が最も良い」と噂したので、多くの中で最も優秀なものを「白眉」というようになりました。
さて、物語ではすっかり悪役になってしまった曹操ですが、実際は文武両道に秀でた一流の人物だったようです。
軍中にあっても書物を手放すことがなかったほどの勉強家で、詩人としても優れていました。
曹操と息子の曹丕(そうひ)、曹植は三曹と呼ばれ、「建安の七子」と共に、文学史上華々しい建安時代を築きました。
特に曹植は、魏晋南北朝を通しての第一人者といわれ、後に謝霊運が
「天下の才を一石とすると、そのうちの八斗を占める。」
と評したほど、大きな存在でした。
曹操は力強く豪放な詩風で、「魏書」によると、
「高い所に登った時は必ず詩を賦し、新しい詩ができあがると管絃に合わせてうたった。」
といいます。
曹操が烏桓征伐に出て勝利をおさめ、帰る途中碣石山(けっせきざん)に登って渤海の壮麗な景色を見て詠んだ「滄海を観る」という詩があります。
東のかた碣石に臨み、以って滄海を観る。
水何ぞ澹澹(たんたん)たる、山と島と対峙す。
に始まり、
幸甚だ至れる哉、歌うを以って志を詠ず。
で終わる詩で、勝利をおさめた後の高揚した気持をうたったものです。
滄海は、漢の東方朔の撰と伝えられる「十州記」では神仙の住む島がある海ということだそうですが、杭州寒蘭の、緑が濃く、花弁が厚く、大きな青花に「滄海」(そうかい)と名付けました。
皆には「アア ソウカイ」と言われていますが・・・
(2001/10/27)
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