◆◆ 15、三国志 2 勢いに乗って南攻した曹操は、赤壁で敗れて華北に帰った後、事実上天下統一の野望を諦めました。 そこで孫権の江東の領土は安泰なものになりました。 一方それまで食客の立場だった劉備は、やがて益州(四川)を手に入れ、長年の根無し草の状態にピリオドを打って自立しました、長江中流の荊州(湖北、湖南)は軍事上の要衝で、孫権と劉備が争うことになりましたが、東西に分割して領有することに話がまとまり、その上曹操との間で争奪戦の的になっていた関中を制圧するなど、劉備は次第に力をつけ、北方進出の足がかりをつかみました。 こうして三国鼎立に向けて動き始めた時、荊州の最高責任者として残っていた関羽が、勢いに乗って魏領に攻め込みました。 曹操は参謀の司馬懿(仲達)の進言で呉の孫権と結び、荊州の領有を条件に関羽の背後を攻撃させます。 挟み撃ちにあった関羽は殺され、その結果荊州はすべて呉のものになって、劉備は魏に対する反攻の拠点と盟友関羽を、同時に失ってしまったのです。 怒りは呉の孫権に向けられます。
曹操は娘を皇后にたてて漢朝の外戚をなり、216年には魏王に封じられ、実権を握りましたが、あくまでも臣下として220年、66才で病死しました。 そして息子の曹丕(そうひ)が魏王の位を継ぐと、やがて後漢の献帝を退位させ、自ら皇帝(文帝)となって魏王朝をたてました。 この時から三国時代とよばれます。 翌年劉備も蜀の地に漢王朝(蜀漢)をおこし、魏によって滅ぼされた漢王室の正統を継ぐという大義名分のもとに帝位につきました。 丞相諸葛孔明の構想は、呉と同盟して魏に対抗するというものでしたが、劉備はどうしても関羽の仇を討つことを諦められません。 群臣の反対を押し切り、大軍を率いて長江を下ります。 出発直前に張飛が部下の手にかかって殺され、関羽と共に挙兵以来の盟友を失っての出陣でした。 蜀軍侵攻を察知した孫権は、再び魏の曹丕と同盟を結び、持久戦の末劉備軍を大敗させました。 222年、総崩れとなった劉備軍は白帝城に逃げ込み、ここに留まります。 翌年白帝城で病気になり、死期を悟った劉備は、成都から丞相の諸葛孔明を呼び寄せ、息子の劉禅と蜀の国の将来をその手に託して息を引き取りました。 63才でした。 全幅の信頼を寄せられた孔明は、後主劉禅を補佐し、最期まで粉骨砕身の働きをします。 孔明はまず呉との同盟を回復しました。 呉は独自の年号をもうけて独立を表明していましたが、229年には孫権が皇帝を称し、これで魏、呉、蜀、三人の皇帝が並び立ちました。 227年孔明は劉禅に「出師の表」を奉り、漢王室復興を悲願として魏に出兵しました。 同行した馬謖(ばしょく)は翌年の街亭の戦いで、指示に背いて山上に陣を敷き、それがもとで敗戦しました。 可愛がっていた部下でしたが、軍律を引き締めるため“泣いて馬謖を斬った”のです。 戦いは7年にわたって繰り返されましたが、魏の将軍司馬懿(仲達)と五丈原で対陣中に、孔明は54才で病没しました。 死ぬ前に退却の方法をすべて指示し、“死せる孔明、生ける仲達を走らす”といわれました。 五丈原の戦いの後三国は一応の安定を保ちます。 邪馬台国の女王卑弥呼が魏王朝を訪れたのもこの頃のことです。 やがて249年に司馬懿親子がクーデターを起こして魏の実権を握り、263年にまず蜀を滅ぼします。 二年後司馬懿の孫、司馬炎が帝位について晋王朝を開き、280年、晋は呉も滅ぼしてしまいました。 三国時代は終わりを告げ、歴史は南北朝時代へと移っていきます。
劉備の最期の地、白帝城は、三国時代のものではありませんが、今も長江北岸にあり、三峡下りの名所になっています。 この名をとった杭州寒蘭素心の「白帝城」(はくていじょう)は、まだ素心が珍しい頃世に出たもので、話題をよびました。 一番名前が通っているものでしょう。 同時期にでた「杭雪」(こうせつ)もよく似た素心で、同じ物ではないかという人もいるようです。 今では素心も数が増えて、珍しいものではくなりましたが、昨年Sさんが手に入れた素心は、これまでの花より花弁の翠緑色が濃く、最後まで形がくずれませんでした。 葉色の紺地がひときわ強いということで、期待を込めて手に入れたそうですが、思った通りの花が咲いて大満足、「翠皇」(すいこう)と命名されました。 これまで素心は、杭州寒蘭としては花弁の緑色がやや薄い点が、「惜しいなぁ」といわれてきましたが、コントラストくっきりの「翠皇」は、切花でも十分話題をさらったものでした。 劉備の夫人を甘夫人といいます。 後を継いだ息子劉禅の生母で、まだ本拠地の定まらない頃、逃げ遅れて捕虜になったり、移動の苦労を共にしました。 劉備は後に呉との同盟のため、孫権の妹と政略結婚しています。 神谷さんが青花に「甘夫人」(かんふじん)とつけて、王者香に載せています。 (2001/10/19) |