◆◆ 14、宋の士大夫(赤壁のつづき) 2,000年秋の展示会に、久しぶりで「飛仙」(ひせん)が展示されました。 「飛仙」は平肩で花型の良い、濃紅花の秀花ですが、今回はちょっと本来の色がでなかったのが残念でした。 次の花を期待しましょう。 飛仙という言葉は、蘇東坡の「赤壁の賦」にあります。 前回の赤壁の続きになりますね。 中国では有名な詩人の大部分は政治家(官僚)でした。 まれに在野の詩人もいましたが、その大半は、事情があって間を退いたり、やめさせられて野に下った元官僚でした。 理由は科挙。 科挙は隋代に始まり、唐代に完成し、宋代に盛んに行われました。 これに合格するための第一条件が、立派な詩を作れることでしたから、名のある文人はたいがい、科挙に合格した官僚ということになるわけです。 ですから政争に巻き込まれたり、又返り咲いたりの繰り返しで、生臭い存在を離れて花鳥風月の世界に浸れるというものではありませんでした。
さて科挙の盛んだった宋の時代のことです。 1067年に神宗(しんそう)が19才で即位した時、国家財政は危機に瀕していました。 膨らむ軍事費の負担と、退官しても俸給の全額が支給される官吏の人件費が、どんどん増大していったためです。 当時は士大夫と呼ばれる有産知識階級が政治の実験を握っていました。 科挙の受験資格は男性に限られてはいましたが、家柄に関係なく、一応誰にでも門は開かれていました。 けれども試験はとても難しくて、合格するには大変なエネルギーと時間が必要でしたから、宋代で実際に合格できるのは裕福な知識階級(生活にゆとりのある地主)がほとんどでした。 官僚であり、文人であり、同時に地主というのが士大夫という支配階級だったのです。 政治はこれらの人々の意思によって行われていました。 この状態を打破し、構造改革を推し進めようと考えた若き神宗は、49才の政治経験豊富な王安石を抜擢し、政治の実権を委ねました。 王安石は22才の時に進士に合格したという学問好きの秀才で、当時文学では絶対的な名声を得ていました。 王安石は画期的な新法を次々と打ち出し、大胆な政治改革を行いましたが、それは特権的な地主階級である士大夫の利益を損なうものでした。 当然激しい反対が沸き起こります。 反対派だった蘇軾(そしょく)、蘇徹兄弟も激しく新法を非難しました。 しかしその筆禍事件がたたって次々に中央政界を遂われます。 蘇軾は起訴され、黄州(湖北省黄岡県)に流されましたが、1082年、ここに雪堂という別宅を建てて、自ら東坡居士と号します。
そしてその年の7月に長江に遊び、「前赤壁の賦」を、10月に「後赤壁の賦」を作りました。 けれどもこの時蘇東坡が詠んだのは、実際の古戦場だった赤壁とは別の場所でした。 そこで前回書いたように、こちらを東坡赤壁とか文赤壁と言って区別しているのです。 「前赤壁の賦」は、赤壁の下に舟を浮かべて客を酒を酌み交わし、友人の道士が洞簫を吹き、蘇東坡が歌って楽しんでいる舟遊びの情景を詠った長い詩です。 その中で道士が、 「ここはかつて周瑜が曹操を苦しめた赤壁のあるところ。 一代の英雄だった曹操の勇姿も今はない。 私とあなたもかげろうのようにはかない、ちっぽけな存在だ。 そこで飛仙をわきに挟んで宙を飛び、明月を抱いて一生を終りたいのだが、かなわない事を知っているから、洞簫の響きを風に乗せて流すのだ。」 と言ったのに対し蘇東坡は、 「過ぎ行くものは水の流れのように流れ去っても、いつも目の前にある。 月も盈(み)ちたり虚(か)けたりするが、消(へ)りもしないし長(ふ)えもしない。 ほんの束の間の生を哀しむことはない。 江上の清風と山間の明月は、どんなに楽しんでも誰も禁じないし、無くなりもしないのだ。」 と、超然の哲学を展開するのです。 蘇東坡はこのよに黄州に流されましたが、流した方の王安石自身も、陥れられて一時宰相の座から退けられます。 しかし再び復帰して新法の定着に努め、やがて辞任して鐘山に隠棲します。 新法の成果が出てきた20年後に、国家財政はようやく黒字に転じ、国内の治安も回復されました。 けれども神宗が死んで哲宗が立つと、保守派の元老司馬光を宰相に迎えて、新法を次々と廃止してしまいます。 旧法派、新法派の対立抗争はその後も続き、宋末の政治的混乱が、小説「水滸伝」の舞台になったことはご存知の通りです。 (2001/9/7) |