杭州寒蘭なまえものがたり

    13、三国志 1


 湖北省蒲圻県(ほきけん)の長江南岸に、赤壁山、南屏山、金鸞山(きんらんざん)の三山が起伏して連なっています。
波多野さんが濃い紅花に「赤壁山」(せきへきざん)と名付けていますが、赤壁山は赤壁の戦いという、三国志のハイライトともいうべき古戦場として知られています。


 三国志は晋の陳寿が書いた史書ですが、日本でお馴染みの物語「三国志」は、史実に虚構を交えた歴史小説「三国志演義」によっています。


 劉邦によって建てられた漢王朝は、紀元8年、外戚の王莽(おうもう)に政権を奪われ、長安を都とした前漢が終わります。
王莽(おうもう)の「新」は15年で滅び、後を受けた劉秀(光武帝)が洛陽に漢王朝を復活させました。
それからが後漢となります。


 この後漢は約200年続くのですが、2世紀後半には外戚と宦官が勢力を争うようになって、皇帝の力が衰え、これに自然災害や疫病が加わって末期的状態になりました。
飢饉が拡がって絶望した農民たちを集めた黄巾の乱が平定された後、政府にはもはや事態を収拾する能力がなく、武力を掌握した群雄が割拠して、覇を争うようになりました。
こうして壮大な歴史ドラマ「三国志」が展開されます。



 群雄の中から大きく頭角を現したのが、黄巾討伐で功績をあげた曹操(そうそう)でした。
曹操はその本拠地に後漢の献帝を迎え、形の上では皇帝を戴いて、華北に覇権を確立します。


 これに対抗したのが、長江の下流域を固めた孫氏の勢力です。
孫権が父の孫堅、兄の孫策の跡をついで立つと、江南の富を背景に一大勢力に成長しました。


 一方、漢の帝室の子孫を称した劉備は、義兄弟の盟を結んだとされる関羽、張飛と共に、裸一貫で黄巾征伐軍に参加し、その後は各地の群雄を頼って、転々と渡り歩きます。
荊州の劉表のもとに身を寄せていたとき、臥竜と噂される諸葛孔明の評判を聞き、「三顧の礼」をもって軍師に迎えます。
孔明は劉備に”華北は曹操が、江東は孫権がすでに固めているので、荊州と益州を手に入れて三国鼎立を図るべきだ。”という天下三分の計を説きました。


 官渡の戦いで袁紹を破り、天下統一の準備を整えた曹操は、荊州の劉表、江東の孫権を攻めようと大群を率いて南下します。
ところがまさにこの大事な時期に、劉表が死んでしまいます。
そして跡を継いだ子の劉j(りゅうそう)は、戦わずして降伏し、荊州を明渡してしまいました。


 劉表を頼っていた劉備は、呉の孫権のもとに孔明を差し向け、連合を組む工作をさせます。
呉の内部では、多数派が曹操との和約を唱える中、知将周瑜の徹底抗戦の主張が通り、連合軍は赤壁に集結して曹操の大軍を迎え撃ちます。
周瑜を総司令官とした3万の水軍は、水に不慣れな曹操の戦船を、折からの東風を利用して火攻めで大敗させました。
その燃え上がる炎で絶壁が真っ赤に染まったところから、赤壁といわれるようになったということです。


 今、長江に面した高さ100mほどの赤壁山の絶壁には、周瑜の筆と伝えられる「赤壁」の二文字が刻まれています。
この赤壁の戦いを境に、曹操は長江南への侵攻を諦め、三国鼎立に向けて事態は大きく動いていきました。



 赤壁と言われるところは、湖北省に五つもあるそうで、蒲圻(ほき)赤壁(武赤壁)の他には黄岡県の東坡赤壁(文赤壁)が有名です。
宋の蘇東坡が黄州(黄岡県)に左遷されていた時度々この地を訪ね、「赤壁の賦」や「赤壁懐古」など名作を残しました。
こちらは赤鼻山(せきびざん)の麓にあり、蘇東坡を記念する楼閣が建ち並んで、公園になっているそうです。


 蘇東坡の「赤壁懐古」の初めの方、


    大江(たいこう)は東に去り、
    浪は淘(あら)い尽くす、千古風流の人物。
    故塁(こるい) 西の辺り、
    人は道(い)うこれ、三国の周郎の赤壁なりと。


 詩人が心を寄せるのは三国時代の赤壁の戦いと、主役となった東呉の英雄周瑜です。
周瑜は24才の若さで将軍となり、周郎(周家の男子)と呼ばれて、杜牧の「赤壁」や李白の「赤壁送別歌」という詩にも登場します。


 新井さんが中国寒蘭に「三国周郎」(さんごくしゅうろう)と命名しました。

                             (2001/8/26)

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