◆◆ 10、漢楚の攻防 長江にかかる最長の橋、南京大橋から50`ほど上流に行ったところ、安徽省(あんきしょう)和県(かけん)の長江北岸に烏江(うこう)というところがあります。 ここは西楚の覇王・項羽の最期の場所です。 紀元前221年、始皇帝が中国統一を果たした秦王朝は、わずか15年であっけなく滅び、漢の統一までの4年間、'漢楚の攻防'として知られる最も劇的な局面を迎えました。 国内の混乱に乗じて共に天下を狙う、項羽と劉邦が主人公です。 '鴻門の会'の時には、項羽が圧倒的に有勢でしたが、次第に形勢は逆転し、ついに劉邦は安徽省にある垓下(がいか)に、項羽の楚軍を追い詰めて包囲します。 このとき四面楚歌を聞いた項羽は、それが策略とも知らず天運と覚悟を決め、ずっと側を離れずに随ってきた最愛の虞姫(ぐき)に別れを告げました。 天を仰いだ項羽の口を衝いて出た悲壮な歌が、有名な「垓下の歌」です。 力は山を抜き 気は世を蓋(おお)う 時に利あらず 騅(すい)逝(ゆ)かず 騅の逝かざる 奈何(いかん)すべき 虞(ぐ)や虞や 若(なんじ)を奈何せん 項羽は精鋭800騎と共に漢軍の囲みを破り、烏江まで辿り着きましたが、最後に残っていたのはわずか28騎でした。 烏江には亭長が舟を用意して待っていました。 亭長は、もう一度江東(江南)の拠点に帰って再起を図るよう勧めますが、項羽は、 「江東の子弟八千人を率いて旗揚げしたのに、自分だけ生きて帰ったのでは、彼らの父母に合わせる顔がない」 といって自ら首をはね、壮烈な最期を遂げたのです。 この時項羽は31才でした。 亭長の好意に対して、項羽は愛馬烏騅(うすい)を贈ります。 馬は項羽が死ぬと主人を慕って天に向かっていななき続け、ついに倒れて死にました。 倒れた時はずれた鞍が長江の南岸まではねとび、馬鞍山(ばあんざん)という山になったという伝説が残っています。 虞美人は '賤妾(せんしょう)何ぞ生を楽しまん' と歌って項羽に殉じました。 その血が流れた土から、後に真っ赤な花が咲き、それが虞美人草(ひなげし)だと、これも伝説になっています。 項羽と虞美人の最期の別れをテーマにした「覇王別姫」(はおうべっき)は、京劇の中でも最も人気のある出し物だそうです。 悲劇の英雄項羽は、日本でいえば源義経のような感じなのでしょうか。 勝利した劉邦は漢王朝をたて、漢の高祖になりました。 劉氏の漢王朝は、前漢・後漢合わせて400年にわたって君臨した最も長命の王朝です。 いつもいい花を選別する鈴木千春さんが、自分の花に「虞美人」(ぐびじん)と命名し、一昨年、昨年と展示会に出してくださいました。 (2001/6/10) |